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学問の神様 菅原道真 のご紹介


承和12年6月25日(845年8月1日) ~ 延喜3年2月25日(903年3月26日)
平安時代の学者、政治家

ご存知のとおり、学問、受験合格の神さま「天神様」として親しまれており、受験シーズンにもなると受験生はもちろん、その父兄や関係者までが神社に押し寄せます。どうして菅原道真が学問の神としてあがめられるようになったのでしょうか!?道真の生い立ちから天神信仰のはじまりまで、こちらでご紹介したいと思います。(*^_^*)  

そもそも道真は、代々学者の家系に生まれ、自分も特に秀でた能力で学者、文人、政治家として活躍、異例の出世を果たしました。幼少から文才に優れており、

11歳で漢詩を作り! 18歳で文章生! 33才で文章博士! 

となり、

42才の時讃岐守!として四国に赴任、農耕・畜産に尽力されました。


以後、その才を遺憾なく発揮して、

醍醐天皇の時に55歳で右大臣!に上り詰めました。

(すごいですね~。いわゆる”天才!”って人ですね☆)  


しかし・・・道真の異例の出世が、時の権力者、藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)、藤原時平の讒言によって失脚し、北九州の太宰府へと左遷されてしまったのです!(>_<) 都を去るとき、道真は

「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 
あるじなしとて 春な忘れそ」




と詠みました。
その道真の愛した梅が、主人を慕って一夜にして京都から太宰府に飛んできたという”飛び梅”の言い伝えは有名な話ですね☆



道真は、太宰府に赴任して2年後の延喜3年に、無念の思いを残しつつ亡くなりました。
延喜5年、門弟によってその墓所に立てられたのが「太宰府天満宮」なんですって。



菅原道真の死後、京の都には異変が相次ぎます。

まず道真の政敵、藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死したり、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)も次々に病死しました。さらに延長8年(930年)には清涼殿に雷が落ち、大納言藤原清貫ら多くの死傷者が出ました。(>_<)


これらが道真の祟りだという考えが広まり、朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行ったのです。そこで子供たちもようやく流罪を解かれ、京に呼び返されました。!(^^)! 

そしてそののち、正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣がおくられたのです。


また清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は「雷神(=天神)」と結びつけられました。そこで火雷天神が祭られていた京都の北野に「北野天満宮」を建立して道真の祟りを鎮めようとしたのですって。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになったというわけです。( ^)o(^ ) 


やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様(道真)」は除所に、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神様は「学問の神様」として信仰されるようになっていったそうです。 とくに学問の神様としての信仰が庶民の間にも広く浸透しだしたのは、江戸初期に寺子屋がはやりだしてからのことだそうです。


寺子屋の様子を記した文献に、子供たちが机を並べる教室には必ず天神様の尊像が掲げられてあったことが記されています。また、お正月の初天神に行う天神講の行事は父兄参観の文化祭ともいえるような寺子屋最大のイベントだったし、毎月25日の縁日には近所の天神社へお参りすることが恒例になっていました。近年、受験合格ご祈願の起源はこのあたりから始まっているのでしょうね。

お受験を控えている皆さん、そのご家族様にも、この天神様のご加護がありますように、お福もご祈願しております。 お正月にはぜひ、太宰府天満宮まで行かれなくとも、お近くの「天神様」にお参りしてみてくださいね。

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